誰かが言わねば

~誰も本当のことを言いたがらない。誰かが言わないといけないことだから、私が言おう~

橋下徹と大阪維新の会がやるべきこと

橋下徹氏と大阪維新の会は、これまでに大阪府市の赤字体質を改め財政を立て直すことに尽力してこられました。さらに二重行政の無駄な部分を削り取るために大阪都構想を推し進めようとしています。もちろんこれはこれで必要なことなのですが、大阪市や大阪府の有権者は橋下徹氏と大阪維新の会に財政の立て直しだけを期待していたわけではありません。
東京都への一極集中が進み、商都大阪の存在感は年々薄れています。かつて大阪人は大阪というのは日本で唯一東京に対抗しうる大都市だと自負していましたが、今ではたくさんある地方都市のひとつに成り下がってしまったことに気づいています。そんな大阪人達が橋下徹氏と大阪維新の会に期待したのは「大阪という都市が昔日の輝きを取り戻すきっかけを作ってくれるのではないか」という点です。大阪の人々は橋下徹氏と大阪維新の会が新機軸を打ち出し、大阪の街の空気をガラリと変え、さらには大阪から日本全体を変えることを期待しています。
残念ながら現在のところ橋下徹氏と大阪維新の会は大阪人の期待に応えてはいません。彼等には大阪人の期待に応えるどころか、いっそ大阪から世界を変えるのだというくらいの気概を見せて大阪人の期待を上回ってほしいところです。

というわけで今回は、大阪から日本を変えるために橋下徹氏と大阪維新の会がやるべきことを書かせていただきます。

まずひとつめとして、大阪府を農地売買自由化特区にするべきです。
国政では農業分野の改革や農産品の国際競争力強化が課題になっていますが、全国的には農業関係の既得権者の政治力がまだまだ強く、抜本的な改革は進んでいません。特に大きな問題点は農地の売買が自由に行えないために大きな資本を持った民間企業が新規参入しにくいことです。現在も一部の特区で農地売買の流動性を高めようという話が出ていますが、農地売買の許可権限を農業委員会から市役所に移すといった内容です。公務員に任せておけば規制が撤廃されて自由化が進むなどということは過去にありませんでしたし、これから先にもありえません。
資金力と経営感覚をあわせ持った株式会社が農業分野に進出すれば間違いなく日本の農業の生産性は向上しますし国際競争力も高まります。しかし生産性の高い事業者が生まれれば生産性の低い零細農家の経営は今よりも厳しくなってしまいますから、零細な農家は改革に反対します。
もし日本が鎖国しているのであれば、生産性の低いダメな人達にあわせてあげればよいのでしょうが、ご存知の通り日本は鎖国していません。国際的な競争にさらされている中で競争力の低い人達が競争力の高い他者の足を引っぱれば、国内の農業の国際競争力は高まらず外国の農産品に敗れてしまいます。それは分かりきったことなのですが、民主主義国家では多数決で出た答え(たとえそれが明らかに間違えた答えであったとしても)に逆らうことができません。

国政レベルで出来ないことこそ地方レベルで先行するべきですし、それこそが改革者のやるべきことではないでしょうか。
大阪に農家は多くありません。農業関係の既得権者の割合が低いわけですから、農業関係の既得権者の側の政治力は強くありません。農業関係の既得権者の影響力が弱い大阪でこそ農地売買自由化を先行して行うことが可能です。
他の都道府県に先駆けて農地売買を自由化すれば、農業に新規参入したい企業がこぞって大阪府で農業を始めることになります。農地の面積は他の県に比べて小さいですが、資金力が豊富で投資意欲が旺盛で経営手腕に優れた企業が大阪に集まるわけですから、大阪の農業の生産性が飛躍的に向上することは間違いありません。
大阪の農業の国際競争力が高まれば、同じことを国全体でやればいいということになります。現実に大阪の農業の競争力が高まってしまえば、他の都道府県でも同じことをやるしかないわけです。これは大阪の未来のためでもあり、日本全体の未来のためでもあります。

次に、カジノ構想と関西国際空港について書きたいと思います。
ラスベガスやシンガポールでは、カジノ、ホテル、国際会議場、劇場などが一体になった巨大施設を作ることで成功を収めました。
だから日本でもカジノ、ホテル、国際会議場、劇場などが一体になった巨大施設を作るのだという考え方には賛成できません。
二番煎じが成功したからといって三番煎じや四番煎じまで成功するとはかぎりません。国内でカジノ構想を持っている横浜、大阪、沖縄、北海道など、今のところそれらの候補はすべてこの三番煎じ四番煎じの構想しか持っていません。
冷静に考えて、巨大な国際会議場を一年中稼働させ続けることができる可能性があるのは東京圏に位置する横浜だけではないでしょうか?大阪や北海道に巨大な国際会議場ができても大規模なコンベンションが頻繁に開催されるとは思えません。劇場についても、ラスベガスではシルクドソレイユが舞台を常設して一年中サーカスを公演していますが、日本ではいったい何を上演するつもりなのでしょう?そんなカラッポの巨大なハコをつくっても観光客は増えません。そもそもカジノについても、近年の東アジアではあちこちにカジノがつくられておりすでに供給過剰の状態にあります。わざわざマカオを飛び越えて日本のカジノに来る中国人がどれだけいるでしょうか?東南アジアの人々がわざわざシンガポールを素通りして日本のカジノに行こうと思うでしょうか?アジアからの観光客を呼び込みたいのであれば、カジノではなく別の方法を考えるべきだと思います。

一方で、従来のカジノ、ホテル、国際会議場、劇場などが一体になった巨大施設という発想とはまったく違うやり方なら、カジノがあってもいいかもしれません。
たとえば、関空の国際線ターミナルからしか行けない場所に中規模のカジノをつくるというのはどうでしょうか?国際線の乗り換えの際に、カジノで時間をつぶせたら退屈しません。それなら香港や韓国の空港で乗り換えるより関空で乗り換えた方がいい、と思う人も少なくはないはずです。「どうせどこかで乗り換えなければいけないのなら関空で乗り換えたい」と考える人がたくさんいれば、それだけアジアの他の空港から乗降客を奪うことができるわけです。このやり方なら初期投資が少なくて済みますし、マカオやシンガポールのカジノとの棲み分けもできます。それに国際線のチケットを持っている人しか入れないなら近隣住民がカジノ中毒になることもありません。
同時に大阪府だけでもパチンコを禁止にするべきです。生活保護とギャンブル依存には明らかに相関関係があります。生活保護率の高い大阪府こそパチンコを禁止にするべきです。空港の中にカジノをつくって、街中のカジノ(パチンコ屋)はなくすべきではないでしょうか。そうすれば、カジノ中毒は増えませんしパチンコ中毒は減ります。

カジノを運営する会社は家賃として収益の一部を関空の運営会社に納めることになります。カジノ収益の数%を家賃として納めるという形にしておけば、透明性を保ってカジノ運営会社と反社会的勢力との癒着を防ぐことができます。そのうえ関空の運営会社は新たな収入源をえることができますから、その収入を原資に航空機の着陸料等の空港使用料金を引き下げることができます。空港使用料金を引き下げれば貨物便も含めて経由地としての利用が増え、関空は東アジアのハブ空港の座に一歩近づくことができるわけです。巨大な統合型カジノリゾートをつくるよりリスクが低く成功する可能性は高いと思うのですが…

あなたはどう思いますか?

(巨大な統合型カジノリゾートを作らない場合に舞洲や夢洲の広大な空き地はどう活かすべきなのか、という話は長くなりますのでいずれまたどこかで)

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正直に言うと「真実の愛」なんて見たこともない

果たして、永遠の愛、真実の愛などと呼ばれる美しいモノがこの世界に存在するのでしょうか?そしてそれは本当に重要なモノなのでしょうか?

まず、真実の愛の存在を年末ジャンボ宝くじと比較してみましょう。
一等賞金五億円の宝くじ、五億円は滅多に当たりません。
当たる確率は天文学的に低いのですが、しかし厄介なことに当選者は確実に存在しています。そのため、もしかしたら自分も当たるのではないかという幻想を抱いてしまい、多くの人が購入してしまいます。もし当選者が一人もいなければ、そんなクジは誰も買いません。ここが人間の不思議なところで当選確率が「ゼロ」なら誰ひとり買わないのに、当選確率が「限りなくゼロに近い」場合にはとてもたくさんの人がクジを購入してしまいます。
真実の愛についても似たことがいえます。そんなものを生で目にしたことはないですし、見つけたと言いたがる人ほどすぐに離婚してしまいます。架空の物語以外で真実の愛に触れる機会は一生ありません。しかしテレビでみた愛の物語は嘘か誠か実話を元に構成されているらしいなんてことはよくあります。滅多にない真実の愛やそれっぽいものを見つけると、特に美しいエピソードばかりをつなぎ合わせてドラマや映画にしてしまいます。もし真実の愛なんて地上にないと言い切れるのなら、誰もそんなものを気にかけたりしないのですが、存在するかもしれないと思うと欲しくなってしまいます。なおかつそれが、さも誰にでも手に入るもののごとく聞かされるものだから「自分も手に入れなくてはいけないのではないか」とたくさんの人が思ってしまいます。

宝くじを買う時には、実際の確率以上に大きな期待を抱いていますが、いざ宝くじがはずれたら「まぁそんな簡単に当たるものじゃないよね」と思います。しかし真実の愛を探す人の多くは、実際の確率以上に大きな期待を抱いて、それが手に入れられなかった時「まぁこんなもんだよね」とは思わずに「どうして私は真実の愛を手に入れることができないのだろう?私の人生の何が間違えているのだろう?」と思ってしまいます。メディアを通して、いつのまにかそれが誰にでもあるものだと思いこまされてしまった人達は、真実の愛がない状態が「不幸」だと勘違いしています。
「なぜ私は五億円当たらないの?私の人生は何が間違えているの?どうすればみんなみたいに五億円当たるの?」と思って悩んでいる人は精神病院にもなかなかいないでしょうが、「なぜ私は真実の愛に出会えないの?私の人生は何が間違えているの?どうすればみんなみたいに真実の愛を手に入れられるの?」と思い悩んでいる人は驚くほどたくさんいます。
真実の愛は地上のどこかに存在するかもしれません。それを手に入れればきっと幸せなのでしょう。しかし、宝くじが当たらないことが不幸ではないように、真実の愛が手に入らないことも不幸ではありません。真実の愛がないことは恥ずかしいことではないですし、真実の愛を持っているふりをする必要もどこにもありません。そもそも「あの人のためならすべてをなげうってもいい」なんて一度も思ったことのない人が、自分のためにすべてをなげうってくれる人がどこかにいるはずだと信じているというのがムチャクチャな話なのです。

「愛」という言葉を便利なものとして利用することには何の問題もありません。しかしそれはあくまで「意味が曖昧で便利な言葉」でしかなくてそれ以上のものではありません。こういう外側だけ美しくて中身がスカスカの言葉を過度に持ち上げて大切なものとして扱っても、人は幸せにはなれません。
本当は「愛」という言葉が便利だから「私たちは愛によって結び付けられたのだ」ということにしておいただけだったのに、いつのまにかその言葉が一人歩きしてしまって、「真実の愛」なんてどんなものなのか知りもしないのに、お互いにそこに「真実の愛」があるふりをしなくてはいけない、多くの人がそんな状況に追い込まれてしまっています。
「愛してるんだ」なんて言ってセックスする理由やセックスさせる理由にしている間は何の問題もないのですが、数ヶ月後に「ねぇ、私のこと愛してる?」なんて聞かれると困ってしまいます。まともな人は「愛してるよ」なんて恥ずかしくって言えません。自らを鼓舞してなんとか言った時には嘘をついてしまったような苦い気持ちになります。ちょうど自分の知らない話題に知ったかぶりして相づちをうってしまった時のような気持ちです。だって真実の愛がどんなものかなんて本当はまるっきり知らないのですから。

さて、あなたはどう思いますか?

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男性の多くが結婚生活に幸せを感じられないでいる

人は誰もみな、誰かに必要とされていたい、誰かに大切にされていたい、誰かに尊重されていたいものです。
時々、仙人みたいに山にこもって誰とも接さずに生きようとする人がいますが、それはその人が「私は誰にも必要とされなくてもいいんだ」と思いながら生きるためには人里から離れなくてはいけないことを意味します。つまり社会の中でたくさんの人と接しながら「私は誰にも必要とされていないんだ」と思って平気な人はまずいないということです。人が誰かに必要とされていたい、誰かに大切にされていたい、誰かに尊重されていたいと思う気持ちはそれだけ強いものなのです。

恋愛や結婚には、この気持ちをお互いに満たしあうという一面があります。つまり一人の男性がある一人の女性を特別大切に扱い、その女性はあなたから特別に思われていることは私にとって嬉しいことなのだという意思を何らかの形で表します。そうやって互いに相手の、誰かに必要とされていたい、誰かに大切にされていたい、誰かに尊重されていたいと思う気持ちを満たし合います。
結婚後もずっと幸せな時間が続けばよいのですが、現実にはちょっとしたきっかけで、相手に対して必要とすること、大切にすること、尊重することをやめてしまう場合があります。きっかけは人それぞれですが、ここでは子供が生まれたことをきっかけに夫婦の関係が崩れていくパターンを見ていきましょう。

子供が生まれると、赤ん坊や幼い子供は母親を特に必要とします。その時点で女性には子供から「必要とされている」実感がありますから、男性からの「大切にされている」実感は必要不可欠なものではなくなり、あるにこしたことはないけど別になくても構わないものに格下げされます。そうなると、忙しい育児の合間に男性に対して「あなたから特別に思われていることは私にとって嬉しいことなのだという意思表示」なんてやってられなくなります。この状況で男性の側が、大切にされることを嬉しいと思ってくれない相手を一方的に大切にし続けるのは難しいことです。
女性と子供はお互いにお互いを必要としあって強く結びつき、男性は女性からも子供からもそれほど必要とされませんし大切にもされません、尊重もされません。しかし、女性も子供も男性から大切にされることを当然の権利として求め続けます。男性の側は、必要とされているのは自分が稼いでくる生活費の方であって自分自身はさほど必要とされていないと気づきます。それでも男性は、自分を大切にしてくれない相手を大切にしなくてはなりません、自分を尊重してくれない相手を尊重しなくてはなりません。つまり一方通行の愛情を求められます、なぜならそれが世間の常識でありルールだからです。
しつこいようですが、大切にされることを嬉しいと思ってくれない人を大切にし続けるのは難しいことです。この状況に陥ってしまった男性には根本的な解決の手段はありません。なぜなら女性の側はまだ「自分を尊重してくれない人を尊重し続けなくてはならない」という状況に直面していませんから、社会の常識に欠陥があるとは感じていません。問題の存在に気づいていない相手に向かって「社会の常識が間違えているんだ」と訴えても理解はされませんから、「現代の家族制度の根本的な欠陥についての指摘」が相手の女性には単なる「夫の個人的な不満」と受け止められてしまいます。
問題解決の手段がない男性は、遅かれ早かれ自分を尊重してくれない人を尊重し続けることを止めてしまいます。男性の側が相手の女性を大切に思うことをやめてしまうと、女性の側はよりいっそう男性を尊重する理由を失います。家族の誰からも尊重されない男性は、家に帰っても居心地が悪いし安らぎもない、そこは自分の居場所ではないと感じるようになります。

もちろん世の中には子供が生まれてもこんな状況に陥らない幸運な男性もいます。しかし残念ながらそれは少数派です。にも関わらず、その少数派だけが正しいという前提で結婚や家族の形に関する常識が作られてしまっています。多くの男性が我が家を自分の居場所ではないと感じているにも関わらず、夫婦は対等で家族は仲睦まじく家庭は安らぎの場なのだというプロレス的フィクションの中に生きることを強要されているのです。
多くの男性にとって、家族の居る家は居心地のいい場所ではありません。しかし彼等は社会のルールに従わなくてはなりません。家族と仲睦まじいふりをして、家でくつろいでいるふりをして、早く帰りたいけど仕事で遅くなるふりをして生きています。そのストレスは生半可なものではありません。

さて、あなたはどう思いますか? 

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