誰かが言わねば

~誰も本当のことを言いたがらない。誰かが言わないといけないことだから、私が言おう~

トキが絶滅したとして何か変化があるのだろうか?

日本では国をあげてトキという鳥を保護しています。日本にかぎらず、絶滅が危惧される種を多くの国や国際機関が保護しています。

私にはこれが不思議なのですが、一体なんのためにそんなことをしているのでしょうか?

トキが絶滅したら誰かが困るのでしょうか?トキの絶滅を防ぐことができたら何かが解決するのでしょうか?

 

地球上では多くの種が生まれ、多くの種が淘汰されてきました。環境に淘汰された種もいれば他の種によって淘汰された種もいます。それなら人という種が他の種を淘汰するのもとても自然なことだ、と私は思います。そもそも「鳥の巣は自然な存在だが人間の住居は自然な存在ではない」という考え方の根底には、人間という種だけが特別な存在だという思い上がりがあります。人間はあくまで自然の一部でしかありません。

世の中にはダムで河川を堰き止めることを自然に逆らった行為と考える人もいるようですが、滅び行くはずの種をムリヤリ交配することの方がはるかに自然に逆らっているのではないでしょうか。

 

客観的な事実として、人類は自然の一部として他の種を淘汰してきました。同時に人類は自分達が暮らしやすいように環境を作り変えてきました。その行為は人類がコントロールできる範囲を超えてしまい、人類にとって必要な部分まで失われつつあります。そして人類は、自分達の居場所をなくてしまいそうな状況に気づいています。気づいてはいますが効果的な対策は見つけられていません。そしていつか人類も淘汰されます。その時は思っていたよりも早いのかも知れません。人類は繁栄と引き換えに種の寿命を縮めてしまったのかもしれません。

トキやクジラやパンダを保護しても、この現実はまったく変わりません。アホウドリをあの手この手で交配しても、失われつつある生態系の多様性が元に戻るわけではありません。

 

絶滅危惧種の保護は私に計算高い子供を連想させます。悪さをした子供は反省している姿を見せることで親に怒りをおさめてもらおうとします。泣きじゃくったり努力して見せたり。そうすれば親はきっと許してくれると知っています。親の許しさえ得れば、自分が元の暖かくて安全な世界に戻ることが出来ると知っています。

もちろんこれは親子の関係に限定された事で、大人が職場で大きなミスをした場合や配偶者を裏切った場合などには当てはまりません。大人の世界では、どれだけ反省していても許されないこともたくさんあります。

しかし、多くの大人はこの原体験を捨てきれないまま生きています。そのため、反省している姿を見せていればいつかきっと自分より大きな何かが自分を許してくれる、という気持ちを抱き続けてしまっています。

軽い気持ちで擦ったマッチが思いのほか大きな炎となってしまった。きっとこの焦げ痕は両親に見つかってしまう。浅知恵から取り返しがつかないほど環境を変えてしまった人類はそんな気持ちなのかも知れません。そこで、罰を受ける前に反省して見せようとしているわけです。

しつこいようですがクジラやパンダを保護して反省の姿勢を見せればすべて許されて地球は元の環境に戻り人類は末永く繁栄する、なんてことはまったくありえません。

 

さて、あなたはどう思いますか?