誰かが言わねば

~誰も本当のことを言いたがらない。誰かが言わないといけないことだから、私が言おう~

保守的な人が世の中をダメにする

世の中には「自分が慣れ親しんでいるの社会制度」が社会の正しい姿だと思い込んでしまう人がたくさんいます。たとえば、男性が働き女性が家を守るという家庭の形はそれほど歴史の古いものではありません。これは産業革命以降にヨーロッパの都市生活者がつくった家庭の形でした。日本では明治以降、それまでの儒教的な男尊女卑とヨーロッパの家庭の形を組み合わせて男親を家長とする家族制度が生まれました。それ以前の日本の農村では男性も女性も一緒に働き一緒に育児をしていました。もっと前の室町時代まで遡れば西日本では貴族も農民も通い婚が一般的でした。
男性が働き女性が家を守るという家庭の形は古来から不変の制度ではありませんし、伝統的と呼ぶほどの歴史もありません。しかし変化を怖れる人達は、たいした歴史すら持たない過去の遺物にすがろうとします。そこには実は「自分は若い頃からそうやって生活してきたから」といった程度の理由しかありません。そういった人達は、自分が変化を怖れているだけだとは夢にも思っていません。彼等は自分達を、由緒ある伝統を守る正しい人間だと信じきっています。
しかし実際には、彼等が伝統的だと思っている生活様式の多くにはすでに守るべき理由がありません。我々が生きている世界は変化の途中の一地点に過ぎないのです。そして彼等は、自分個人に最もなじみのある一地点を正しい地点だと思い込んでいるにすぎません。世界が変化し続ける中で自分だけが変わらなければ、世界の変化から取り残されることになりますが、彼等はそんな現実から目をそらして「伝統」という美しい言葉に逃げ込みます。

言葉を例に説明するともっと分かりやすいかもしれません。年配の人で「最近の言葉の乱れ」を嘆かわしいと言う人がいます。
そういう人は、根拠もなしに「自分に最もなじみのある日本語」が正しい日本語だと思い込んでいます。しかし現実にはその人が生きてきた期間も変化の途中の一地点に過ぎないのです。
平安時代の日本語と江戸時代の日本語は同じではありません。江戸時代の日本語と1985年の日本語も同じではありませんし、1985年の日本語と2010年の日本語も同じではありません、そして2010年の日本語と2035年の日本語も同じではないでしょう。つまり「正しい日本語」などというものはそもそもどこにも存在しません。言葉は常に変化し続けています。変化についていけない人が変化を怖れて泣きわめくかわりに賢しげに「言葉の乱れ」を嘆いてみせているだけなのです。しかもそういう人は自分の臆病さや愚かさには気づかずに「自分は伝統を守ろうとしているのだ」と信じこんでしまっているわけです。

根拠もなしに「自分が慣れ親しんでいる社会制度」が世界の正しい姿だと思い込んでいる人達は、その社会制度がなぜ作られたのかを考えません。社会が変化すれば、当然古い制度は機能しなくなるのですが、彼等はその社会制度が機能しているかどうかすら考えていません。とっくに機能しなくなっている制度を守ることが正しいことだと信じ込んでいるわけです。
当然のことですが、現代の社会には現代の社会特有の状況があり、その状況にあわせた新しい生活様式が必要となります。現代の社会で昔の社会のルールを使い続けるよりも、現代の社会に適したルールを新しくつくった方がよいことは疑う余地もありません。伝統を守ろうとする人は変化を避けたがりますが、現実に世界が変化している中で自分達だけが変わらずに生きていくことは不可能なことです。

そもそも、幾世代にもわたる革新の連続とその積み重ねが後世の人々の目には伝統と受け止められます。ただ変化を怖れて形骸化した社会制度を守ることを伝統と呼ぶべきではありません。
我々は特に激しく変化する時期に生きています。そのせいなのか最近は年配の人だけでなく若い世代にまで変化を嫌がる風潮が広がりつつありますが、革新を拒んで繁栄するということはありえません。

さて、あなたはどう思いますか?

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