他人に与える印象は「様子」で決まる
人と人とのコミュニケーションは、「言葉で言う」と「行動で示す」がすべてではありません。両者には常に「様子」というものがついてまわります。それどころか「様子」だけが独立したコミュニケーションの手段となることさえあります。
たとえば電車の中でベビーカーが邪魔になるという意見があります。一方で小さな子供がいる母親だったずっと家に閉じこもっているわけにはいきません。人ごみの中にベビーカーを持ち込むという行動に賛否両論あるわけですが、実はこの場面で最も重要なのはその行動ではありません。その際の「様子」の方がより重要な意味を持ちます。
電車の中でベビーカーが邪魔だと言っている側の人達はベビーカーを電車に乗せるという行動自体にイラだっているわけではありません。彼等は、電車の中でふてぶてしい態度でベビーカーを押している母親の「様子」にイラだっています。電車が駅について扉が開いた時に、扉付近にいる母親があせった様子でベビーカーを車外に押しだそうとしていたなら、後ろで待たされている人達は心の中で「そんなにあせらなくてもいいですよ」と優しい気持ちで見守ることができます。逆に、扉付近にいる母親が「子供が一番大事なんだから後ろに並んでいる人達よりも子供の安全を優先するのは当然なのだ」という様子でベビーカーを動かしていたならば、後ろで待たされている人達は「おまえの子供をかわいいと思ってるのはお前だけなんだぞコンニャロウ、さっさとどきやがれ」という気持ちになります。
沖縄の人達が米軍に出て行ってほしいと思っているのも、つきつめるとこの「様子」の話になります。どの訓練をやめてほしいとかどの基地をどかしてほしいということももちろん重要なことなのですが、沖縄の人々にとって重要なことはそれだけではなくて、米兵の沖縄県民に対する「植民地の原住民のくせに」という様子に我慢ならないわけです。日米地位協定を改めることもちろん重要なことですが、それ以前に米兵が「大切な同盟国の市民の皆様」という様子で沖縄県民と接すれば状況は変わるはずです。
言葉を発する時にも「様子」は重要です。
申し訳なさそうな様子で申し訳ありませんと言われたら大抵のことは許せますが、なんの感情も抱いていない様子で言葉だけ申し訳ありませんと言われるとよけいに腹が立ちます。いかにも愛おしそうな様子であなたのことが好きだと言われればその気持ちにこたえたいと思いますが、ちょっとした挨拶くらいの様子であなたのことが好きだと言われるとウサン臭い人だなと思います。
様子というのは人に伝わります。背中を見ているだけでも申し訳なさそうな「様子」なのかどうかは伝わるものなのです。
「様子」は偽装することが可能です。そんなに申し訳ないと思っていなくてもいかにも申し訳ないと思っているような様子を偽装することは可能です。そんなに愛おしいと思っていなくてもいかにも愛おしそうな様子を偽装することも可能です。
それでも、申し訳ないと思っているような様子を偽装するということは申し訳ないと思っている様子を装わなければいけないと思う気持ちがあるわけですし、愛おしそうな様子を偽装するということは愛おしそうな様子を装わなければいけないという気持ちがあるわけですから、それだけで十分なのではないでしょうか。愛おしそうな様子を装わなければいけないとすら思っていないことに落胆するわけですし、申し訳なさそうな様子を装わなければいけないとすら思っていないことに腹が立つわけですから。
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