誰かが言わねば

~誰も本当のことを言いたがらない。誰かが言わないといけないことだから、私が言おう~

誰も責任を負わない腐った組織について

日本では、大きな組織や歴史のある組織が誰も責任を負わない腐った組織に成り下がってしまうことがよくあります。

「責任」ということについて考える前に、まず「真面目」という言葉の意味について考えていきましょう。

学生にとっての「真面目」と公務員やサラリーマンにとっての「真面目」はほぼ同じ意味です。自営業者や経営者、政治家や芸術家などにとっての「真面目」は学生にとっての「真面目」とは大きく異なります。

公務員やサラリーマンにとっての「真面目」は結果が伴って始めて評価されますが、学生にとっての「真面目」は結果が伴わなくても過程を評価してもらえる場合があります。これは学生に結果をえるためには過程が重要だということを学ばせるためであって、大きくいえば両者の「真面目」は同じ意味です。それはつまり、与えられたミッションに取り組みできるだけよい結果を出すという意味です。
自営業者や経営者、政治家や芸術家などにとっての「真面目」はこれとは大きく異なります。まず、自営業者や経営者、政治家や芸術家などの人々は誰からもミッションを与えてもらえません。彼等は自分が何をするべきなのかを自ら考え、自らの意思で決断し行動します。彼等にとっての「真面目」とはまさにそういう意味です。

自分が何をするべきなのかを自ら考え、自らの意思で決断し行動する人にとって「責任」というのは真面目さの一部分でもあります。彼等は、自分がするべきことを自分の責任で決断し行動します。
一方で与えられたミッションに取り組みできるだけよい結果を出そうとする人にとって「責任」というのは、与えられた課題をこなせなかった時に受けるペナルティーという意味でしかありません。彼等はできるだけ責任を負わないように行動します。

どちらが優れていてどちらが劣っているという話をしたいわけではありません。サラリーマンや公務員が学生と同じ「真面目」な生き方をしていることに何も問題はありません。世の中にはそういう役割を果たすべき人達も間違いなく必要とされています。しかし、そういった人達が出世して責任を負うべき立場になってしまった場合には大きな問題が生じます。

与えられたミッションに取り組みできるだけよい結果を出すことを真面目なことだと受け止めているサラリーマンや公務員が出世してそのまま経営者や責任者になってしまう組織があります。彼等は自分が何をするべきなのかを自ら考え自らの意思で決断し行動しなくてはならない立場に立っても、与えられたミッションに取り組みできるだけよい結果を出すことを真面目なことだと思い続けます。彼等は与えられたミッションに取り組みできるだけよい結果を出すという意味の「真面目」を持って生きているために、与えられた課題をこなすことは得意ですが自らの意思で決断して自らの意思で行動するという意味の「真面目」を持ち合わせていません。彼等は責任を負って決断すべき立場にいるのに自らの意思で決断することができません。彼等にできることは自らの責任にならないように前例に従って行動することだけしかありません。彼等は自分の意思では決断せずに、ただ前例に倣いますし前例のないことは自らの責任にならないようにすべて先送りにしてしまいます。なぜなら責任を負わないようにすることが彼等にとっての真面目な生き方だからです。
こうやって、責任を負って決断すべき立場の人が責任を回避するために決断を先送りにしたり前例主義に陥ってしまったりするような腐りきった組織ができあがってしまいます。

ここからは誰も責任を負わない組織が社会にどのような形で悪影響を与えているのかを詳しく見ていきましょう。

第二次世界大戦当時の日本軍の上層部は公務員としての「真面目」、つまり与えられたミッションに取り組みできるだけよい結果を出すという意味の「真面目」しか持たずに生きていた側の人達でした。彼等は自らの意思で決断して自らの意思で行動するという意味の「真面目」を持ち合わせていませんでした。そのために彼等はズルズルと世論に引きずられて開戦し、ズルズルと戦争を長引かせました。彼等の「真面目」は彼等に「明らかに負ける戦争を少しでも早く終わらせる」という決断すらさせませんでした。彼等が前例のない状況で決断を先送りにしている間にも、毎日毎日たくさんの日本人が死に続けていました。

東京電力の生え抜きの幹部は与えられたミッションに取り組みできるだけよい結果を出すという意味の「真面目」しか持たずに生きている人達です。福島原発であれだけの事故が起こっても、彼等は「自分は今日まで真面目に生きてきたし誰からも後ろ指をさされる覚えはない」と本気で思っています。
自らの意思で決断して自らの意思で行動するという「真面目」を持ち合わせていない彼等は、福島原発の事故について「自分が役員の時にこんなことになるなんてついてないなぁ」というくらいにしか思っていません。A級戦犯として裁かれた軍の上層部の人達も同じ様な気持ちだったのでしょう。
なにしろ彼等は自分が真面目に生きてきたという自負があります。自分に求められている「真面目」がそれではないとはゆめにも思っていません。
自らの意思で決断して自らの意思で行動するべき立場の人が責任を回避して何も決断しないと、そこには多くの問題や大きな不幸がうまれてしまいます。しかし彼等は与えられたミッションをこなすことだけを「真面目」なことだと思いこんでいるので、自分に非があるとは永遠に気づきません。

与えられたミッションをこなして給与を貰っている人達が出世して幹部になる組織はいずれ、組織としての意思決定ができない腐った組織になってしまいます。
経営者は経営者として、幹部職員は幹部職員として、別に育成するシステムが必要になります。
現状では民間企業が外部から経営者を招くことはありますが、国や自治体の組織が外部から経営者を招く仕組みがほとんどありません。(あるいはあっても機能していません。)本来は政治家がその役割を果たさなくてはならないのですが、残念ながらほとんど果たせてはいませんしおそらくこれからも政治家の質が劇的に向上することはないでしょう。
日本の行政システムは公務員の力で保っています。日本の行政システムが優れているのは現場の公務員が優秀だからに他なりません。彼等は現場での職務遂行能力が極めて高く、幹部としての経営能力が極めて低い人達です。日本の組織は今も昔も「兵士は一流、将校三流」とか「現場一流、トップは三流」と言われます。この現状を変えるためには、民間の優秀な経営者を幹部職員として省庁や自治体に招くシステムが必要です。

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