誰かが言わねば

~誰も本当のことを言いたがらない。誰かが言わないといけないことだから、私が言おう~

恋愛に障害がなくなり私達は不幸になった

昭和の終わり頃の少女漫画やテレビドラマには恋愛物がとても多かったものです。
主人公は意中の異性と結ばれようとしますが、「暮らす世界の違い」「家と家の関係」「意地悪なクラスメイトや継母からの嫌がらせ」等々、さまざまな障害に阻まれてなかなか恋が実りません。継母からの嫌がらせは当時の少女漫画のお約束ですが、それ以外はすべてその頃の日本に実在したものでした。少し昔の日本には様々な「恋愛の障害」が確かに存在していたのです。
当時、恋愛はどこか後ろめたいものでした。そして、少数の人しか手に入れることのできない輝かしいものでもありました。だからこそ少女漫画やテレビドラマは恋愛をテーマにすることができていたわけです。

その後、「恋愛」の地位が向上しました。
生活レベルや社会的階級の近さよりも個々の恋愛関係の方がより重要なものと考える人が増えました。同時に家を守るという意識も薄れました。一人娘だから婿入りしてもらわないと困るという人は減りましたし、そんなことより自由に恋愛することの方が重要なことだと考える人が増えました。
その結果、恋愛は少数の人しか手に入れることのできない輝かしいものではなくなり、他人の恋愛を邪魔する意地悪なクラスメイトや道でカップルをひやかす不良グループはいなくなりました。恋愛が誰にでも手に入れることができるものになったために、他人の恋愛を妬む必要がなくなったわけです。そうやっていつのまにか恋愛にまつわる「障害」は世の中からなくなってしまいました。

しかし残念ながら、恋愛は障害がある方が燃え上がるものです。
障害のない恋愛は安っぽいテレビドラマにすらなりません。恋愛に障害があった時代にはシンガーソングライターが会えない理由を示さずにただ「逢いたい」のフレーズを繰り返すだけでもある程度の共感をえることができましたが、恋愛に障害のない世界ではさっさと会えばいいじゃないかとしか思われません。
恋愛の地位が向上し恋愛にまつわる障害が排除されてしまったために、結果として恋愛自体の価値が低下してしまいました。

恋愛に障害があった世界では、障害に立ち向かう過程が美しい愛の物語の渦中にいるような錯覚を与えてくれました。もし愛を手に入れられなかったとしても、私の人生にも美しい愛の物語があったのだという思い出を持っておくことはできたわけです。つまり障害があるおかげで、恋愛を手に入れられない場合にもある程度は幸せな気持ちでいることができました。
この時期のヒット曲には失恋をテーマにしたものが少なくありません。人々は失恋し、失恋ソングを聞いて自らの愛の物語に陶酔していました。恋愛に障害があった世界では失恋にすら価値を感じることができていたのです。

恋愛に障害がなくなったことで、愛のために闘う機会がなくなってしまいました。恋愛はそれほどドラマチックなものではなくなりそこから得られる喜びは小さくなってしまいました。そして逆に、何の障害もないのに愛を手に入れられないことをとてもミジメなことと感じるようになりました。
恋愛が誰にでも手に入れることができるあたりまえのものに成り下がったために、それは誰にでも手に入れることができるものであって同時にどうしても手に入れなくてはならないものだということになってしまいました。しかし現実には手に入れることができない人は大勢います。誰にでも手に入れられるはずのものを手に入れられていないのは、恥ずかしくてミジメで不幸なことと感じるようになってしまいました。
たとえば「草食男子」という言葉があります。それはつまり、何の障害もないのに恋愛を手に入れられていないことに何らかの言い訳が必要になってしまったということです。

恋愛に障害がなくなったために、それを手に入れられた場合の喜びは小さく、手に入れられない期間に感じる不幸は大きくなってしまいました。恋愛に障害がなくなり、私達は不幸になってしまったのです。

あなたはどう思いますか?

自称「スキのない女」がモテない理由は別にある

大人の女性が自らのモテない理由を分析すると「私には男性がつけ入るスキがないから」という所にたどり着くことが少なくありません。しかしそれは、「自分に魅力がないから」ではなく「自分の生き方に問題や間違いがあるから」でもなく「スキのある女にしか言い寄ることができない世の男性が弱々しいから自分がモテないだけで自分自身は悪くないのだ」ということにしておきたい彼女等の一方的な主張でしかありません。

彼女等の主張にはいくつかの間違いと事実誤認が含まれています。
まず彼女等の主張を整理してみましょう。
・スキのない美しい女性よりスキだらけのかわいいタイプの女性の方がモテやすい
・スキだらけの女性にしか手を出せない男は弱々しくてロリコンにちがいない
・そもそもスキのある女性はスキのある女性を演じているにすぎない
・男性が求める「かわいい女性像」はファンタジーであって現実にそんな女性は存在しない
・そんな見え透いた演技も見抜けないなんて世の中の男のレベルが低すぎる
・私は自分を偽ってまでモテたいとは思わない
・自分を偽ってパートナーを見つけても、私のことを理解してもらえるわけがない
・そんな偽りの関係には意味がない

部分的に正しいところもあるのですが、残念ながらここには大きな間違いがいくつか含まれています。
まず「スキのない美しい女性よりスキだらけのかわいいタイプの女性の方がモテやすい」というところは明確な事実です。「そもそもスキのある女性はスキのある女性を演じているにすぎない」「男性が求めるかわいい女性像はファンタジーであって現実にそんな女性は存在しない」といったあたりも間違えていません。
しかし男性がなぜそういう女性に惹かれるのかというところを、自称「スキのない女」達は分かっていません。

たしかに、男性が求めるかわいい女性像は男のファンタジーですし現実に生まれつきアヒル口の女性は存在しません。しかし男性が求めるかわいい女性像を演じてくれる女性は存在します。
一方で、「女はいくつになっても女のまま」「いつまでも美しい女でいるために努力を怠らない」「母でもあり妻でもあり女でもある」などなど、世の中は女のファンタジーに満ちあふれています。そして世の中の男性の多くはそんな「女のファンタジー」に異論を挟まずに全面的に受け入れています。
「男のファンタジーにつきあってくれない女性」と「男のファンタジーにつきあってくれる女性」がいたら、多くの男性は後者を選びます。女のファンタジーにはつきあってもらわなくちゃ困るけど男のファンタジーになんてつきあうつもりはありません、という女性が男性から選ばれにくいのは当然のことではないでしょうか。

「スキのない女」達はスキのある女を演じる同性を嫌悪します。男に媚びるような生き方は自分にはできないし、そんなことをしても意味がないと思っています。しかし元々、人は自分を演じて生きています。家族の前での自分、職場での自分、学生時代の友人の前での自分、意図的に使い分けているわけではありませんが、人は誰もいつのまにか複数の自分を演じながら生きています。「スキのない女」として生きていた人が、次の職場では男性が求めるかわいい女性像を少しだけ取り入れることにしたとしても、それは大きな変化ではありません。

「スキのない女」達の最も大きな間違いは、ありのままの自分を互いに理解しあって受け入れあうのが恋愛だと思っているという点です。しかし、そもそもの話として「ありのままの自分」というのは存在しませんし、人が人を完全に理解するということもありえません。彼女等は存在しないものを手に入れようと待ち続けながら、存在するものを手に入れている同性を嫌悪しているわけです。

もし彼女等から、自分を理解してくれない人とつきあってもそこに幸せがあるとはかぎらない、と反論されたらたしかにその通りです。しかし自分を理解してくれる人を一生待ち続けるだけの人生が幸せでないことは間違いありません。

さて、あなたはどう思いますか?

 

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保守的な人が世の中をダメにする

世の中には「自分が慣れ親しんでいるの社会制度」が社会の正しい姿だと思い込んでしまう人がたくさんいます。たとえば、男性が働き女性が家を守るという家庭の形はそれほど歴史の古いものではありません。これは産業革命以降にヨーロッパの都市生活者がつくった家庭の形でした。日本では明治以降、それまでの儒教的な男尊女卑とヨーロッパの家庭の形を組み合わせて男親を家長とする家族制度が生まれました。それ以前の日本の農村では男性も女性も一緒に働き一緒に育児をしていました。もっと前の室町時代まで遡れば西日本では貴族も農民も通い婚が一般的でした。
男性が働き女性が家を守るという家庭の形は古来から不変の制度ではありませんし、伝統的と呼ぶほどの歴史もありません。しかし変化を怖れる人達は、たいした歴史すら持たない過去の遺物にすがろうとします。そこには実は「自分は若い頃からそうやって生活してきたから」といった程度の理由しかありません。そういった人達は、自分が変化を怖れているだけだとは夢にも思っていません。彼等は自分達を、由緒ある伝統を守る正しい人間だと信じきっています。
しかし実際には、彼等が伝統的だと思っている生活様式の多くにはすでに守るべき理由がありません。我々が生きている世界は変化の途中の一地点に過ぎないのです。そして彼等は、自分個人に最もなじみのある一地点を正しい地点だと思い込んでいるにすぎません。世界が変化し続ける中で自分だけが変わらなければ、世界の変化から取り残されることになりますが、彼等はそんな現実から目をそらして「伝統」という美しい言葉に逃げ込みます。

言葉を例に説明するともっと分かりやすいかもしれません。年配の人で「最近の言葉の乱れ」を嘆かわしいと言う人がいます。
そういう人は、根拠もなしに「自分に最もなじみのある日本語」が正しい日本語だと思い込んでいます。しかし現実にはその人が生きてきた期間も変化の途中の一地点に過ぎないのです。
平安時代の日本語と江戸時代の日本語は同じではありません。江戸時代の日本語と1985年の日本語も同じではありませんし、1985年の日本語と2010年の日本語も同じではありません、そして2010年の日本語と2035年の日本語も同じではないでしょう。つまり「正しい日本語」などというものはそもそもどこにも存在しません。言葉は常に変化し続けています。変化についていけない人が変化を怖れて泣きわめくかわりに賢しげに「言葉の乱れ」を嘆いてみせているだけなのです。しかもそういう人は自分の臆病さや愚かさには気づかずに「自分は伝統を守ろうとしているのだ」と信じこんでしまっているわけです。

根拠もなしに「自分が慣れ親しんでいる社会制度」が世界の正しい姿だと思い込んでいる人達は、その社会制度がなぜ作られたのかを考えません。社会が変化すれば、当然古い制度は機能しなくなるのですが、彼等はその社会制度が機能しているかどうかすら考えていません。とっくに機能しなくなっている制度を守ることが正しいことだと信じ込んでいるわけです。
当然のことですが、現代の社会には現代の社会特有の状況があり、その状況にあわせた新しい生活様式が必要となります。現代の社会で昔の社会のルールを使い続けるよりも、現代の社会に適したルールを新しくつくった方がよいことは疑う余地もありません。伝統を守ろうとする人は変化を避けたがりますが、現実に世界が変化している中で自分達だけが変わらずに生きていくことは不可能なことです。

そもそも、幾世代にもわたる革新の連続とその積み重ねが後世の人々の目には伝統と受け止められます。ただ変化を怖れて形骸化した社会制度を守ることを伝統と呼ぶべきではありません。
我々は特に激しく変化する時期に生きています。そのせいなのか最近は年配の人だけでなく若い世代にまで変化を嫌がる風潮が広がりつつありますが、革新を拒んで繁栄するということはありえません。

さて、あなたはどう思いますか?