誰かが言わねば

~誰も本当のことを言いたがらない。誰かが言わないといけないことだから、私が言おう~

結婚しない人が増えた原因のひとつが見過ごされている

つい数十年前まで、日本には男尊女卑の差別的な男女観が残っていました。ここ数十年の間に、男女差別は徐々に解消されてきました。しかしその表現は正確ではなく、正しくは女性に対する差別だけが徐々に解消されてきました。

仕事と家事について考えてみましょう。
ほんの数十年前までは家事が苦手で家庭的でない女性は「ダメな女」呼ばわりされました。それは性差別であって、女性にも男性と同等に社会に出る権利が認められなくてはいけない、という考え方自体は正しかったと思います。結果として、日本から「ダメな女」というカテゴリーがなくなってしまいました。フェミニズムの団体等の活動の結果(そういった活動をしている人達が求めていたこととは違う結果なのでしょうが)家事も仕事もなにもできない女性でもダメな女ではないということになったわけです。
一方で、男性への性差別は数十年前から大きくは変化しておらず、仕事上の能力が低い男性や家族を養えない男性は今も「ダメな男」呼ばわりされています。女性に対する性差別だけが薄れたのに対し男性に対する性差別はほとんど変わらず存在し続けているためにバランスが崩れ、それが結婚しない人が増える原因のひとつとなっているわけです。

現在の日本で「結婚」に関して、
女性が持つ選択肢は
・仕事を持ち結婚しない
・仕事を持ち結婚するが子供を持たない
・仕事を持ち結婚し仕事を持つ夫と二人で子供を養い二人で子育てを行う
・結婚して仕事を辞めて子育てをする

男性が持つ選択肢は
・仕事を持ち結婚しない
・仕事を持ち結婚するが子供を持たない
・仕事を持ち結婚し仕事を持つ妻と二人で子供を養い二人で子育てを行う
・仕事を持ち結婚し妻と子供の両方を養う

四つの選択肢はそれぞれに対応していて、一見バランスが取れているように見えます。
しかしよく見ると選択肢が一つずつ欠けていることに気づきます。女性の側に「仕事を持ち結婚し夫と子供の両方を養う」、男性の側に「結婚して仕事を辞めて子育てをする」という選択肢が抜けているのです。この選択肢が広く受け入れられていない原因は男性に対する性差別です。

バランスの崩れを解消するためには、男性への性差別を緩和し、競争にむかない男性に結婚して仕事を辞めて子育てをするという選択肢を与えなくてはいけません。ここ数十年、女性の家事労働には一定の価値があると認められるようになってきました。まったく同じ理由で男性の家事労働にも一定の価値があると認められなくてはなりません。気が優しくて競争が苦手なだけの男性を「ダメな男」呼ばわりするのが正しいことなのかどうか、そろそろ認識を改める時期に来ています。

「女性が仕事を持ち結婚し夫と子供の両方を養い、男性が結婚して仕事を辞めて子育てをする」という形の家庭を築くことを正しいと感じる人もいるでしょうし、正しくないと感じる人もいるでしょう。しかし問題はそこではありません。大切なことは、自分が正しいと思わない生き方を選んだ他人を受け入れるということです。もちろんこれは無数にありえる家庭の形の中の一つにすぎません。世の中にはありとあらゆる人がいますから、世の中にはありとあらゆる生活スタイル、ありとあらゆる形の家庭が必要になります。社会全体が一つの価値観を共有する時代はすでに終わり、多様な価値観を持つ人々が同じ社会に生きる時代になりつつあります。自分と違う生活スタイルで生きている人や自分と違う家庭の形を選んだ人を互いに受け入れることが、現代の社会を生きやすくするために必要なことなのです。

さて、あなたはどう思いますか?

日本の離婚率が上昇しつつある理由

なぜ日本では昔に比べて離婚率が高くなったのでしょうか?昔はうまくいっていた社会のシステムやルールが今はうまくいかないのはなぜなのでしょうか?考えてみましょう。

一世代前、あるいは二世代前の日本には今よりも強い性差別がありました。たとえば男性が外で仕事をし、女性が家で家事や育児をするというのがかつての常識でした。その頃から比べて大きく変わったことがいくつかあります。

かつての性差別の強い社会に生きている男性は家事をしたことがありませんでしたが、現代の男性の多くは一人暮らしの期間を経て結婚するので家事をひと通りやったことがあります。また女性の側も、男性と同等の仕事をした後に結婚する人が多くなりました。結果的に、男性は家事というものがそんなに大変なものではなくて片手間ででもできるくらいのものだと知ってしまいましたし、女性の側も男性が都合が悪くなる度に仕事だとかつきあいだとか言うのがほとんどすべて嘘だということを知ってしまいました。男女が平等になりつつあること自体はよいことですが、結果としてお互いに相手を許す理由を一つずつ失ってしまいました。

性差別の強い社会では、男親が家族のリーダーなのだという常識がありましたが、現代の社会には男性がリーダーで女性がそれに付き従うというルールはありません。もともと家庭内において男親には経済面以外の存在意義はほとんどありません。しかしかつての性差別の強い社会では、家族のリーダーという肩書き(たとえそれが有名無実でも)があったおかげで男親にもかろうじて家庭内に居場所がありました。家族のリーダーの肩書きを剥奪された男親には「あまり役に立たない家事・育児の補助者」というくらいのポジションしか与えられません。仕事を終えて家に帰ってもそこに男性を包む安らぎはなく、食器洗いや風呂掃除の雑用だけが待っています。性差別が薄くなりつつあるのはよいことですが、結果として多くの男性が家庭内での居場所と家に帰りたいと思える理由を失ってしまいました。

人々を取り巻く状況は絶え間なく変化していますから、昔と同じことをしても昔と同じ結果が出ないのは当たり前のことです。親の世代と同じことをすれば最低でも親の世代と同じくらいの幸せは手に入るものと信じて結婚した人達の多くは同じ幸せを手に入れることが出来ずにいます。生きている状況も持っている願望も親の世代とは異なっているのにカタチだけを同じにしてもうまくいかないのは当然のことで、結果として離婚に至る人が増えたわけです。

性差別とは別に「新たに欧米風のルールを取り入れた」というのもここ数十年の間に起きた大きな変化でした。しかし残念なことにそれは、さほど優れたものではありませんでした。
第二次世界大戦で日本人は精根尽き果てるまで空襲や空腹に耐えてから敗れました。すっかり心が折れてしまった当時の日本人は、日本の伝統的文化は欧米の文化に比べて圧倒的に劣っていると勘違いしてしまいました。その傾向は世代を重ねるにつれて薄れてきていますが、常識や家族観などは変化するのに時間がかかるものですから今ごろになって欧米化しつつあります。
特に家族制度や働き方、社会保障の話になると「アメリカでは…」「フランスでは…」「スウェーデンでは…」と、さもそこに正解があるかのように言いたがる人がいまだに多くいます。
もちろん欧米の文化やシステムには優れた部分もありますが、すべてが優れているわけではありません。特に家族の形に関して、欧米のシステムはお手本となるほど優れたものではありません。欧米の離婚率は非常に高いのですが、なぜ彼等の真似をすれば幸せになれると思う人がいるのか?不思議としか言えません。

さて、あなたはどう思いますか?

人命はなぜ尊いのか

すべての人命は等しく尊いということになっていますが、それはあくまでも建前の話にすぎません。心の奥底では誰しもが、本当に尊い思っているのは自分自身の命だけで、会ったこともない他人の命を同じくらい尊いと思ってはいません。

それでもやはり世の中には「人命とは尊いものなのだ」という建前が必要になります。
お互いに人命は尊いということにしておくことによって「私はあなたを殺さないしあなたの命を尊いものとして扱うから、あなたも私を殺さないで私の命を尊いものとして扱ってください」という契約的なものが生まれます。
人命は尊いという建前を常識として社会全体で共有すると「私はすべての人の人命を尊いものとして扱うし、私の命もすべての人から尊いものとして扱ってもらえる」ということになります。本当に尊いと思っているかどうかとは関係なく、すべての人命は等しく尊いのだという建前を社会全体で共有することによって世の中の安全と安定が保たれているわけです。

何らかの理由(たとえば社会的に阻害されてしまったり、完全に自信を喪失してしまったり)で自分の命を尊いと思うことをやめてしまった人は一方的にこの契約関係から降りてしまいます。自分の命を尊いと思わなくなってしまった人は他人の命を尊いものとして扱うこともやめてしまうのです。そしてそういった人の一部は「死刑になりたかった」とか「誰でもよかった」というような一方的な動機であっさりと殺人を犯してしまいます。彼等は自分の命を尊いと思うことをやめてしまった時点で「人命は尊い」という常識からこぼれ落ちてしまったがために、常識では考えられないことを平気でやってのけてしまうわけです。

人命は尊いという建前を共有している人が心の奥底で本当に尊いと思っているのは自分の命だけなのですが、自分の命だけが尊くて自分以外の命は尊くないのだという意識を剥き出しにして生きる人はめったにいません。しかし不思議なもので自分達の命だけが尊くて自分達以外の命は尊くないのだという意識を剥き出しにして生きている人達や集団は世界にたくさんいます。一人だと何も主張できないが集団になれば何でも主張できる、そういう弱くてズルい人が少なくないということなのかもしれません。
選民意識を持っている集団や、排他的な宗教に属するグループなど、自分達と同じ属性を持った人の命だけを尊いと考える人達は自分達と異なる属性の人の命を尊いものとしては扱いません。そのためこういった人達はさしたる罪悪感を抱かずにテロや戦争の中で人命を奪います。
イスラム原理主義者はイスラム原理主義者以外の命を尊いものとして扱いませんし、ユダヤ人はパレスチナ人の命を尊いものとしては扱いません。ゴリゴリの民族主義者は他民族の命を尊いものとして扱いませんし、ゴリゴリの共産主義者は資本家の命を尊いものとして扱いません。中国の人々は自分達の文化に染まらないウイグル人の命をそれほど尊いものとしては扱いませんし、米国の人々は自由と民主主義という価値観を共有していない人達の命をそれほど尊いものとしては扱いません。

残念ながら今日の世界では多くの人が、自分と同じものを食べ同じ価値観を持ち同じような生活を送る人にのみ敬意を持ちます。そして自分の理解の外側にいる他人を否定しようとするか意識的に無視します。
世界には自分に理解できない何かを信じて生きている人たちが無数に存在しているという事実をすべての人が受け入れ、自分とは異なる属性を持った人たちとの間にもお互いの人命は尊いのだという建前を共有できた時に、初めて世界に平和が訪れるのではないでしょうか。その日はいつ訪れるのか?そんな日が本当に訪れるのか?それは私にも分かりませんが…

さて、あなたはどう思いますか?