誰かが言わねば

~誰も本当のことを言いたがらない。誰かが言わないといけないことだから、私が言おう~

「自然」とはどういう意味なのだろう?

「自然」という言葉について考えてみましょう。

もし、鳥が巣を作ることは自然なことだというのであれば、人が家をつくることも自然なことなのではないでしょうか。
動物が快適さを求めて穴を掘ったり巣をつくったりして生活環境を改善しようとすることは自然なことですし、人間が水源の確保と水害の防止のためにダムを建設するのも自然なことです。つまり、ダム建設は自然を破壊する行為でもありながら自然な行為でもあります。ダム自体は自然を破壊して築かれるものでもあり同時に自然な存在でもあるわけです。

フランス人女性の一部は脇毛を処理しないそうです。なんでも彼女等は、毛を剃るなんて不自然だと思っているとか。しかし人が他人からよく見られたいと思うのは極めて自然な感情なのではないでしょうか?つまり彼女等は脇毛という自然な存在を自然のまま残すために自分が他人から良く見られたいと思う自然な感情の方を殺してしまっているわけです。自分が他人から良く見られたいと思う自然な感情に従って脇毛という自然な存在を剃ったり抜いたり毛根から殺したりする日本の女性達と比較すると一勝一敗の引き分けといったところでしょうか。

大きなダム工事に利権が絡むのは自然なことです。不必要なダムであっても、そこに利権があるなら建設しようとする人がいるのも自然なことです。もちろん利権に関係していない人がそれに反対するのも自然なことです。
あぁ今日も世界は自然であふれかえっているなぁと思うと少しだけ明るい気持ちになれますよね。

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ウヨクもサヨクと同じくらいお花畑的だという話と集団的自衛権について

私は、これから先も日本は平和な国であってほしいと願っています。

左翼的な人達は日本の防衛予算が増えることに否定的で、平和のためには軍備は必要ないと主張します。それに対して右翼的な人達はお花畑的だと批判します。軍備を放棄して周辺国の善意に期待するだけで平和を維持できるわけがないと主張するわけです。それについては私もその通りだと思います。一方で、右翼的な人達が好む「自主憲法の制定」とか「自虐史観の見直し」とか「核武装」とか、そういった勇ましい主張だけで平和を維持できるとも思いません。軍備を放棄して平和を維持するというのは間違いなくお花畑的ですが、勇ましいことを叫んでいれば平和が維持できると思っている人達も同じくらいお花畑的です。勇ましいことを叫んでいれば相手が恐れて後ずさりする、なんてことはまったくもってありえないのですから。

政府関係者が靖国神社に参拝しても、歴史認識を勇ましく見直しても、国際社会で日本に不利な空気が強まるばかりで何のメリットもありません。何のメリットもないことを主張して気勢をあげている人達は、どう考えてもお花畑的です。
現行憲法への修正や追加は私も必要だと思っていますが、内容の問題ではなくアメリカの作った憲法はいやだからという理由で自主憲法を制定したいというのはあまりにも子供じみています。そんな幼稚な理由で自主憲法を制定しても何のメリットもありません。ドイツがワイマール憲法を捨てた歴史を思い起こさせるような行為は、近隣国に軍国主義の復活だと騒ぎ立てる機会を与えてしまうだけです。

日本人は空気を読むのが得意ですが、どうやらそれは自分が直接所属している組織や社会の中だけに限られた能力のようです。国という大きなフィルターを通してしまうと日本人は空気を読むのがあまり得意ではありません。組織の中で空気を読みすぎるのはよくないことですが、空気をまったく読まないのも良くないことです。同様に、国際社会の空気をまったく読まないのも当然ですが良くありません。
日本が平和を維持していくためには、国際社会の空気を読みつつ少しずつ日本に有利な空気を醸成していくべく戦略的に行動する必要があります。

大雨が降るときには外出するより家にいた方が安全です。しかし避難命令が発令されれば家にいるより避難した方が安全です。状況の変化に応じて最も安全な行動をとるのは当然のことです。
過去60年以上にわたって日本は平和を維持してきました。しかしすでに日本を取り巻く状況は変わりつつあります。今まで憲法9条さえ守っていれば平和に暮らせたからといって、今後も憲法9条さえ守っていれば平和に暮らせるというわけではありません。それは避難命令が発令されても家に留まっているのと同じです。異なる状況でこれまでと同じ行動を続けていても平和を維持することはできません。今後も平和を維持するためには、状況の変化に応じて行動を変えなくてはいけません。

東西冷戦の初期、アメリカには反共の防波堤として日本を守る必要がありました。日本の経済成長期以降、アメリカには経済的な結びつきの強い日本を守る必要がありました。しかし対米貿易額の最も大きい国が中国になった今、アメリカには一方的に日本を守る動機が薄らいでいます。

冷戦時はアメリカに対抗できる軍事力はソ連しかもっていませんでした。冷戦終結後しばらくはアメリカに対抗できる軍事力を持つ国はありませんでした。しかし近年、中国の軍事力は強大化していますし今後も中国軍の膨張は続きます。同時にアメリカの国力は落ちつつあります。
しかも中国の行動からは「力のある国が力によって現状を変更するのは当然のことだ」と考えている様子がうかがえます。残念ながら中国政府は19世紀のルールが21世紀にも通用するものとまだ信じているようです。
アメリカと同じ側に立ってさえいれば平和が約束されるという簡単で幸せな時間はすでに終わりつつあります。この状況で、中朝露というややこしい国々に囲まれた日本が今後も平和を維持していくためにはしたたかな戦略が必要になります。

日本が末永く平和を維持するための最終的な目標は、中国と安全保障条約を結んで地域の安定を共に支えることです。中国と中身のある安全保障条約を結ぶためには、中国の人々に現代の世界では「力による現状変更を行うことは不可能なことなのだ」と理解してもらわなくてはいけません。これを理解してもらうためには、まず「力による現状変更をしようとしてもうまくいかない」ということを中国に学ばせる必要があります。
アメリカが東南アジアの国々と安全保障条約を結んで中国の横暴を封じ込めてくれればよいのですが、すでにアメリカに任せておけば大丈夫という状況ではなくなりつつありますし、アメリカにはそこまでのリスクを一身に背負うだけの動機がありません。中国の首脳が「広い太平洋には中米両大国を受け入れる十分な空間がある」と言い放っても、アメリカの首脳は「太平洋には米中以外にもたくさんの国が存在している」とすら言ってくれません。アメリカが独力で中国の横暴をくい止めてくれることは期待できそうにありません。

憲法9条をたてに、アメリカに一方的に守ってもらうだけで平和を維持できた時代には集団的自衛権や集団安全保障への参加は必要ありませんでした。しかしこれから先の日本が平和であるためには、アジア太平洋地域の各国と何らかの形で安全保障の仕組みをつくり、中国が力による現状変更をしようとしてもうまくいかない状況をつくらなくてはいけません。
アジア太平洋地域の国々との間に安全保障の仕組みをつくる際に、憲法9条のために集団的自衛権の行使や集団安全保障への参加ができないという理由で日本だけが安全保障のシステムにタダ乗りさせてもらうことはできません。

「自分達の国は自分達の力だけで守りたいから」という幼稚な理由で憲法9条の改正を求める人達はただのお花畑です。戦争せずに平和を維持するためには自分達の力だけでは足りません。日本が今後も平和な国であり続けるためには平和への意識を共有する国々との連携が欠かせませんし、そのためには集団的自衛権の行使容認や集団安全保障への参加を避けては通れないのではないでしょうか。

あなたはどう思いますか?

専業主婦が家事を通して夫を虐げる理由

育児中の専業主婦の多くは夫が帰宅するとすぐに家事の一部をさせようとします。夫が疲れた体にムチ打って食器洗いや洗濯後の衣服の収納などを行っても、専業主婦の多くは感謝すらしてくれません。それどころか夫の家事のやり方が自分独自のルールと一致していないことをなじります。さらに、育児中の専業主婦の多くは週に六日は自分が育児をしているのだから週一日は夫が育児を引き受けなくてはならないと思っています。夫は週に六日外で働いているのですが、夫の仕事が休みの日には夫が育児をして自分は育児から開放されるべきだと主張します。なぜ育児中の専業主婦はこのように理不尽な要求を突きつけて夫を虐げるのでしょうか?
そこにはもちろん原因があります。しかしこの原因は夫にはありません。妻と他人との関係から生じる怒りやイライラを最も身近な夫にぶつけています。くわしくみていきましょう。

育児中の専業主婦は、同性の知り合いが自由な時間を多く持っていて自分より自由にお洒落をしたり買い物をしたり美味しいものを食べたり働いたり恋愛したりしていることに嫉妬します。彼女等は、自分が持っていない幸せを持っている人がいるという事実に強くストレスを感じています。
結婚して専業主婦になるという選択肢しか与えられていなかった世代の女性は、こういったストレスを強く感じることはありませんでした。専業主婦になる選択肢もキャリアを積んだり新しい恋愛を楽しんだりする選択肢も持っている世代の女性は、自分が選ばなかった選択肢を選んだ人がいる事実、自分が獲得していない幸せを獲得している人がいるという現実にストレスを感じるようになりました。

特に恋愛を何よりも価値の高いものと思っている人が主婦として育児をする際には、次の恋愛ができないことをとても不幸なことだと感じます。彼女等は結婚していない同性の知り合いが自由に恋愛していることに強く嫉妬します。自由に恋愛する権利を持っている人がいるのに自分にはその権利がないことを自分だけが損をしていると感じてしまいます。そのため自分が持っていない「自由に恋愛する権利」を持っている人がいるという事実にストレスを感じます。そして「自分だけが家庭や育児に縛り付けられている」ことを不公平で損なことと思うようになります。

しかし育児中の専業主婦がそのイライラを結婚していない同性の知り合いにぶつけることはまずありません。イライラを相手に直接ぶつけると負けを認めることになってしまいます。彼女等の多くは決して負けを認めようとはせずに育児を通してしかえられない幸せなひとコマをフェイスブックで公開します。キャリアを積む生き方を選んだ女性はキャリアを積む生き方を通してしかえられない幸せなひとコマをフェイスブックで公開しますし、新しい恋愛を楽しみ続けようとする生き方を選んだ女性は新しい恋愛を通してしかえられない幸せなひとコマをフェイスブックで公開します。そうやって彼女等はフェイスブック上で互いに相手が持っていない幸せを見せつけあい、結果として自分が獲得していない幸せを獲得している人がいるという事実にストレスを感じあっています。

育児中の専業主婦は自分が制限された自由しか持っていないイラだちを結婚していない同性にぶつけないかわりに、そういったストレスやイラだちを最も身近な夫に向けることになります。彼女等は、夫が自分より多くの自由を持っていることに怒りの矛先を向けます。そのため、夫が外でちょっとした趣味の時間を持ったり、つきあいで飲みに行ったり、ということを不公平で受け入れがたいことだと感じ始めます。それどころか夫が仕事の都合で帰りが遅くなることもどこか遠くに出張することも、すべて自分にはなくて夫だけが持っている特権的な自由で、自分だけが損をしていると感じるようになってしまいます。
そうやって「夫が外で好き勝手している間、私は一人で育児をしている」という気持ちになってしまうわけです。実際に夫は、仕事の合間に同僚と冗談を言いあったり後輩の女の子にデレデレしたり出張のついでに土地の美味しいものを食べたりもしているのでしょうが、妻の側にも育児中に子供と長い時間を過ごす人にしか経験できない幸せな時間があるはずです。しかし自由な時間や新しい恋愛といった、自分が持っていない幸せを持っている同性が存在するという事実が、彼女等を「私だけが育児に縛られて損をしている」という気持ちにさせてしまいます。夫には仕事から解放される時間があるのに自分には育児から解放される時間がないというのは事実なのですが、夫が仕事から解放された時間に夫に育児を押し付けてしまうと今度は夫から自由な時間が失われます。夫と妻の関係だけを見ると妻に自由な時間を作るために夫の自由な時間を奪うというのはムチャクチャな話なのですが、彼女等は自分と「夫」との関係ではなく自分と「自分より自由な同性」との差を埋めるために夫の自由な時間を奪おうとしています。
そのため彼女等は、夫が帰宅するとすぐに家事の一部をさせようとしますし夫が休みの日には育児を全面的に押しつけようとします。夫は、平日は外で仕事をしているのにまるで遊んで帰ってきたかのように扱われて、帰宅後や休日に家事や育児をさせられることに納得がいきません。しかし女性の側は「男女平等の社会では男性も家事や育児を行わなくてはならない」という世論を後ろ盾に口撃してきますから、男性は一人で世論を相手に反論しても勝ち目がありません。

一部の男性は遊んで帰ってきたように扱われることや不毛な言い争いやが嫌になり、帰宅すること自体を苦痛に感じ始めてしまいます。そして毎日どこかで時間をつぶして、家族が寝静まった後に帰宅するのが習慣になっていきます。男性の帰宅時間が遅くなれば、女性の側の「自分だけが自由を奪われている」という気持ちはよりいっそう強くなります。
この状況は「お互いへの思いやり」とか「常日頃からの感謝の気持ち」とかでは解決しません。なにしろ原因は夫婦の間にあるのではなく、妻と妻より自由な他人との間にあるのですから。この状況を解決するためには、ひとりの人間がありとあらゆる幸せをすべて獲得するのはそもそも不可能なことなのだと女性の側に理解してもらうしかないのですが、その話は長くなるので興味のある人は電子書籍「愛というストレス、幸せという強迫」(アマゾン・キンドルストア)の方をご参照ください。

さて、あなたはどう思いますか?